やたらと

眠い。貪るように眠っている。疲れなのか。願望として、潜在意識が活発に働いていて、叶えてくれるといいなと思う。心から願っていることがある。歌の披露が終わったら、きっと会うと思う。愛のイメージはついたけど、この「ある人に逢いたい」と思う気持ちは、何だろう。愛は全てに向けてなんだけど、逢いたい気持ちはたった一人だけ。手放さないといけないんだろうか。必要とされたい人、逢いたいと願う人、怠けたい人。私(魂)の中の住人。理想通りにしたい人、できないと怒る人、急かす人、愛想がない人、マナーを守らない人。それも全部。みんなおいで、追い出しません。

この作戦で行くよ。まだ慣れないけど、自分のやり方で行く。深い所で怯えている人。何に怯えているの?自分が周りの人から避けられること。孤独になること。この人は愛する対象じゃない、魅力がない、病的だ、近寄りたくない。親戚の異常行動や、精神疾患による入院、その血が自分にも通っていて、そうなるんじゃないかという恐怖。最近、人と関わるのが怖いし、心を開けない、もう一生このままなんじゃないか、病気になってしまうんじゃないかと思うと怖い。小さい頃、大人しくて地味だった、周りの目を気にして、言いたいことも言えなかった、流行りにもそんなに興味がなかった、ダサいなって思う。そういう自分もここにいな。追い出さないから。

別に怖がっても、ダサくても、怠けても、愛想が悪くてもいいんだね。自分に迷惑をかけよう。とんでもない奴がいようと、ちょっとしたことで傷付いて動揺しても、どうしようもなくても、下手くそでも、ボソボソ自信なさそうに話しても、ぼーっとしていても、行動がトロくても、的が外れていても、要領が悪くても、だらしなくても、不器用でも。ここまで来ると、さすがに追い出したくなっても。人が怖くても。ここにいなさい。

私と自分が重ならないと、物事が前に進まないようになっているんじゃないかと思う。

地球が私の中に。愛します。

地球

今日の気付き。ようやく覚悟がついた、ほぼ。私の中のずるい人、ダメな人を追い出すのをやめて、住人にすることにした。そしたら、20人くらいの色んな自分が住む住居の管理人になったような気になり、周りの人達、生き物、世界、地球、宇宙が私の中に住んでいるような感覚になった。自分の気持ちが分からなくなって、路頭に迷っていたところ、探っていくと、私(魂)に辿り着いた。私がこの人生ですべきことは、私を愛することだと思った。そしたら、自分が久しぶりに笑った。

自分改革

自分なりに、色々見たり聞いたりして試してきたけれど、どれも最初だけで、残るものはほとんどない。それどころか、自分と向き合うことで敏感になりすぎて、鬱病寸前だ。どうも、他人の真似では上手く解決できないようだ。テーマは自己否定、自傷の衝動、恐怖。ただし、鈍感になるという選択はできるだけ取りたくない。さあ、どうするか。

人生では、正しさは正解じゃない。

例えば、これは私の考えではありません。明日勉強会があります。が言えない。責任逃れをする自分を責めているから。疲れているので勉強会に行きたくないという気持ちを隠したいから。自分を責めるのが辛い、弱音を隠したいから人を避ける。それが、周りの人の存在を蔑ろにしていること。迷惑をかけまいと我慢することが、本質的に迷惑をかけているということ。本音を汲み取る。これが一番大事。正しさなんて最初から誰も必要としていなかったんだ。迷惑をかけて、もし元気になれたら、おそらく自然にお返しをしようとするんだよね。そういう循環に逆行すると、どこかで行き詰まる。まずは、自分に迷惑をかけてみたら。なぜそう思うの。と聞き続けてみればいい。

またここに書くだけで終わっちゃうんじゃないのって思ってる。それでもいい。自分にもっと頼ろうかな。とりあえず、今どうしたいか聞いてみる。わがまま言うのかと思ったら、ちゃんと寝て、おいしいもの食べて、楽しいことや面白いことを考えてほしい、だって。

鬱が少し晴れた。

地。

「地に堕ちる」とは言うけれど。今そこにいる気がする。居場所がなくなって、呼吸するために命からがら這い出てきて、今再び、地中に埋もれて息ができなくなってきている。つまり、新しく環境を変えても同じ結果になるのなら、内側に原因があるということ。事実と存在が同じだと信じ込んでいるのかもしれない。事実が正解なら存在も正解、事実が不正解なら存在も不正解。存在に不正解はないのに。。不器用な人、社会に役立つスキルを持ち合わせていない人、コミュニケーションが苦手な人、常識と離れた感覚を持つ人はこの世の中では本当に生き辛い。でも、周囲の存在を害する人でない限り、存在は肯定されるべきだと思う。どうしたらよいだろう。

涼しい。

いつだって欲が悪者にされている。欲望を叶えたいのと苦しいのは同じだ。欲望を諦めるのと苦しみから解放されるのは同じだ。愛で溢れた世界にいることが幸せである。2年前の環境が大きく変わった時。今までの人間関係が途切れて、自然が美しく見えて、エネルギーが溢れていて、他の誰にも侵害されないありのままの自分になれて、新しい出会いに心が弾んで。あの頃に戻りたい。好奇心。偏りはあるけれど。リセットしたい。新しく日記を書き始めるのと、旅をするのと同じ感じ。疲れているんだろう。真っさらのシンプルな新品になりたい。日常の中にあるのかな。

ぐるぐる

どこだろう、私。どこに行くんだろう。足枷はある。情緒が豊かで、それを表現していないと、自分でなくなっていく。生気が衰えていく。自分や他人の欠点を見つけたら人格に×を付けるのも、人の視線を気にするのも、恐怖も、不安も、感情。それに費やした時間は、一体何の意味があったの?たくさんたくさん考えた。その度に感情の渦に飲み込まれ、溺れた。何も変わらないような絶望感に襲われた。結局今のように、視線に耐えられなくなって、人と目を合わせることができなくなった。恐怖で行動できなかったり、人を信じられなくて避けたりする現状。生きていくということは、愛を捨てることなのではないかと思い始めている。だって、駅ですれ違う人、道を歩く人、仕事をしている人、みんな苦しそうだ。生き生きしている人なんていない。他人は鏡というけれど。愛したいと思うほど、遠のいていく気がする。世界が良くなる方法を考えていると、愛に辿り着く。私が人生で一番良かったと思う時期も、愛で溢れていた。何も無理していなかったし、そのままで愛されて、周りも笑っていて。できないことがあるたびに自分の人格はダメだ、なんて考えなくてよかった。愛があるから幸せになるし、憎くもなる。でも、愛がなくても幸せになる世界はあるのではないか。敢えて区別し、慈悲と呼ぶ。愛は感情だ。波がある。慈悲は愛の世界を知っていることだ。私は今、愛の世界を信じられなくなってきて、恐怖に飲み込まれそうになっている。痛みを伴うかもしれないが、その恐怖に大丈夫と言ってあげられるようになったら、晴れて卒業だ。

重い。

何に気付くべきでしょうか。やたら気付きは降ってきますが、私に恵みをもたらしてくれているのでしょうか。苦しい、滞っている。気付くべきは、真実の愛です。憎しみと行き来する愛と、憎しみを伴わない真実の愛があると思います。怖がっているようです。さて、恐れている真実の愛とは何か。やるべきことをやっていない、誠実でない。それに尽きるのではないのか。単純にやるべきことを全力でやっていたら、恐れなど生まれないのではないか。だって非の打ち所がないでしょう、本人の100%の力に。真実の愛でない理由は、やるべきことを終わらせていないから。では、やるべきことって?ここから本題です。知っているのだけど、もしかしたら単なる気分かもしれない、5分後には180°変わっているかもしれないという不安があって。感情のままに笑ったり、話したり、行動すると、後で恥ずかしい思いをしたことがあるから。それがとても怖いです。正しい答えを一生懸命探している。カズに再会する。玉置浩二さんのような歌手として小さなステージに立つ。漢方辛いけどもう少し頑張ってみる。